父の思い 父への思い

何だろう。
とっくに覚悟はできでいたのに。
金沢での4日間も普通に終えたのに。
東京に着いて店へ向かう昼間の電車の中で涙が出た。
そして今まで通りの日常の中で沢山の思いが溢れる。
だから、ここに今思う事思い出す事を書いておこう。


2016年4月20日13時27分。父は死んだ。
八王子の山奥の病院で。1人ひっそりと。
68才。そして長い長い16年を終えた。
ちょうど東京に来ていたという母と八王子で待ち合わせ
病院に着いた時には、もうここにはいなかった。

16年の闘病生活。
金沢から東京の高尾の病院に入ってから15年半位かな。
長かったね。
結局、よく分かんない病気。
そして、去年の夏、誤嚥性肺炎をおこし、繰り返し、奇跡をおこし、今年に入って意識をなくし。
だから、もう十分。がんばったよ。
金沢に帰ってみんなに送ってもらおう。
その時はあまりに急で、何だか実感もわかず
ただそんな気持ちだったような気がする。
でもそうではない。

思い出すのは、りょくをオープンした2日目。
2000年10月29日。
オープン初日に続き、沢山の友人知人が、祝いに遊びにワイワイと来ている中、
母からの泣きながらの電話だった。こんな時にごめんねと言いながら。
高尾の病院に来て何か月かたっていた父の病名がついたと。
もう長くはないという事だった。
わいわいと沢山の仲間が来ている中、1人頭が真っ白になったのを覚えている。

結局、病気は二転三転して何だったのか良くわからない。
50才前半まで、ギリギリに全力で駆け抜けた故なんだろ。
太く短く。

病気になる前の父はバリバリの現役だった。
新しい事を始めたばかりでもあった。
だから、仕事の事、付き合いと関係、やろうとしていた事、そして借金。
問題だらけだった。
もし、りょくをオープンする前だったらどうしていただろうと考える事がある。
母はその時、金沢を捨て東京かどこかに行く事さえも考えてた。
それでも母は、父が残したもの、志半ばの事、帰って来ることを信じ父の為、家族の為に守る事を決断した。
人に何を言われようが、たくさん頭を下げ、真正面から。

長い長い15年半の間、色んなことがあったけれど、
父は、いつも金沢に帰る事、現場に復帰する事を言っていた。思っていた。
そして、いつもたくさんの事を心配していた。
僕に対しても
りょーへー
金沢帰ってこいやー。
家族助けてやれやー。
商売、お店はどうやー。
(そいえば、病院で宣伝してたり、入院してた人が退院して、いい店やから行って来いつわれて
来ましたって人もいたな。)
やるならもっとがんばれやー。
もっとこーせいや。あーせいや。
お前なら大丈夫や。
はよ嫁連れてこいやー。
みんな元気かー。
がんばっとるみたいやなー。

いつも。いつも。
病気で大変で辛い思いをしているのに。

15年半の間、父は家族とおじさんだけしか会う事ができませんでした。
母はその間そんな大変な間、時間を見つけては東京に来て、あの遠い病院から連れ出していた。
気持ちはあっても大変だったと思う。
東京にいる唯一の僕も、日帰りだが時々連れ出し八王子の市内まで出て半日を過ごした。
昼飯食って、買い物して、パチンコ位か。
後は、眼科や歯医者など。
病院に着くと着替えて僕が来るのを待ってた。
わりーなー。
何食うかー。
5000円だけパチンコ。
わりーなーでんかったなー。
後5000円くれー。
時には2人並んでやったこともあったが
いつも遠くからその後ろ姿をずっと見ていた。
この前母さんとどこそこ行ってきてん。
あそこの飯うまかったぞー。
たわいもない半日をいつも過ごした。

15年半。
どんどん年老いて、体や体調の波もあったけれど
夕方、病院に連れて帰る時のさみしそうな後ろ姿。
退院が近いと思い前向きに戻っていく姿。
忙しいのにいつも悪いな。また来てくれやー。
もうすぐ金沢帰れるぞー。
もう大丈夫や。なおっとる。
はー。戻りたくないなあ。
1度だけこんなことも言った。
何でや。まるで刑務所に入れられとるみたいや。

15年半の間は、時々の八王子市内や都内での外出、外泊。
お正月なんかは、都内で何泊かしたり家族で食事もした。
後は、何回かだけだけど温泉にも泊まりにいったなあ。
でも、ただそれだけ。

いつになったら退院できるんや。
どうなっとるんや。
来月金沢帰るぞ。
そんな父の言葉や憤りのなさ

いい加減にしてや。
たのむからちゃんとしてよ。
みんな大変なんよ。
助けてよ。
そんな母の言葉や苛立ち

言い争う事もあった。
分かっていても。どうにもらない。
いっぱいいっぱいだったと思う。
しょうがないことは分かっていても。

父は、どうにかしたい一心でうちのお店にも毎日のように電話をかけてくる事もあった。
母の所にはもっともっとあっただろう。
いいかげんにしてくれやと何度も思う事もあった。
いつまでたっても治らない病気。退院できない病気。
父も憤りのなさから、ある事ない事金沢の仕事関係、友人知人に電話や手紙を送りつける事もあったという。
沢山の迷惑や誤解もおかけしいくつかの問題も起こった。

母は限界も近かっただろうが、それでも、いつかを信じていた
そんな2,3年前だっただろうか。
父の現役の頃のある問題を片づけなくていけないことがおこった。
そして、話しあいの末、病院で声を荒げる父と母。
感情的になるなや、大丈夫やって、しょうがないってとしかいう事ができなかった。
その時から、去年の夏に誤嚥性肺炎で倒れるまで、父が動けた間、話の出来た間に
2人は合う事がなかった。時間が足りなかった。

その問題を処理をする中で、何度も何度も父に会い連れ出すのだが1度だけ母を悪く言った。
そんなわけないやろー。そして怒った。
そして、そうやなと口には出さずにも、会えなくなった母への思いを感じた。
母も、なんだかんだ言いながらも、どうやった?元気やった?と思っていた。

この問題が起こったとき、父に説明と同意を得るために、車を借りて兄弟3人で父を迎えに行った。
そんな事は今までなかったからか、
父は、家族でどこかに行くんだと思ったのだろうか。
そして、あの時が最後になってしまったかもしれない
穏やかな笑顔で
どこかウキウキした感じで
どこいくん?
母さんどこで待っとるん?
昼飯はそれからやなあ。
道込んどるなー。
時間大丈夫かー。
でも、着いた場所に待っていたのは、おじさんと、どうするのかという息子3人の前での同意だった。

去年の7月肺炎を起こしたから朝までに救急病院に転院させなくてはと連絡があった。
夜も遅く今までの病院の方が救急車で連れて行ってくれた。
肺炎を軽く考えていた。
僕は朝一にその転院先に向かった。
そこには、最後にあった5月とは全く違う姿、やせ細った父がいた。
医者は、すぐにという事はないが覚悟はしてくれと言った。
とにかく何とかしてくれと。
どういう事なんだと。

そして、落ち着き何日かして1度今までの病院に戻りリハビリをする事になった。
ただ、誤嚥性は繰り返すだろうから次は危ないとの事だった。
何週間かして、病院から大分調子もいいし、炭酸水飲む練習してるから今度来るとき買ってきてくれないかと。
少し安心してネットで安い炭酸水を沢山注文した。
それから何日間後の8月終わりに、またおこして救急に行くので今すぐきてくれと電話があり
店を閉め慌てて向かった救急病院には、喉に穴を開け全く意識もない父が機械に繋がれていた。

いったいどうなんだ。
医者の説明はよくわからない。
ただ、金沢から遠いだろうが、とりあえず家族を呼べと。
次の日母が来た。
父に会うのはあれから1年か1年半ぶりだろうか。
母が東京に来るころ、店を閉め2人八王子へ向かった。
母は色んな思い怖さがあっただろう。何かぐずぐず言っていたように思う。忘れたけど。
どこかでコーヒーを飲み、少し話をしてから病院に向かったような気がする。
そして変わり果てた父の姿を見て、溢れる気持ちを話しかけ握りしめ。
確かにその時、父は意識を取り戻し、手を握り返し、何かを話そうとしていた。
2人残しその場を離れ、病院の先生が来るころに戻り、話を聞いた。
明日位がヤマだろう。
でも不思議と大丈夫な気がした。
父はずっと母が来るのを待っていたのだから。

それから、何日かして病院に行くとリハビリをしている父がいた。
喉の穴を開けたから、しゃべれないと思っていたのに、おっすと近づくと
りょーへーかと。コーラのみたいと。
そして、そら見ろと言わんばかりに、リハビリを一生懸命やっていた。

奇跡なのか必然なのか
それから2回病院を変わってがんばってた。
もうだめです。
あの8月から取戻し、また話ができ、本当の復活をがんばっていた。
色々な問題はあったけどその時本当に金沢に連れて帰る事はできなかっただろうか。
色々な問題はあったけど本当に人に会わせる事ができなかっただろうか。
もっと会いにいけなかっただろうか。
後悔はキリがないし野暮だろうが。

3月には弟が嫁と子供と母を連れ父に会いに来ている。
もちろん意識はなかったけど、父と母2人でたくさん話をしてたと言ってた。
去年の正月に弟は、嫁に全てを話し、会いに行っている。
子供にじーじやぞと紹介もでき、
良かったと思う。

最後の病院の先生は、あの8月に死ねなかったんだといった。
だから本人も辛いだろうと。
それは、違う。
それでもまだ金沢へ帰ろうとしていたんじゃないか。
まだまだ、沢山の事をやろう話そうと思っていたんじゃないか。
どこの病院でもリハビリでもあの頑固な人が素直に取り組み、
そして、いつものようにどこに行っても、看護師さん患者さんリハビリの方に
愛され、笑いを起こし、転院の度に、寂しくなるなあと言われていた。

僕が最後に話が出来たのは、年末でした。
次に行った時にはもう意識がなく、最後まで戻ってこなかったから。
その時、もうちょっと来てくれんかと弱気だったなあ。
この病院ヒマやから雑誌も買ってきてくれと。

年を明けてしばらくして意識をなくすのだけど、
電池切れたからと頼まれていた腕時計を持っていった時にはもうほとんど意識はなかった。
持って行った時計は安いドンキのやつ。
その時、病院の看護師さんが言っていた。
この前まで、車いすにのってナースセンターにきて皆を笑わせていたと。
そして、早く時計持って来いと息子に連絡しろと。
そしたら、あいつらロレックス持ってくるぞと言ってたと。
そんなわけないけど。あのオヤジらしい、あのヒトらしい冗談やなと思う。

それから、2回目の奇跡は起こす事なく、意識も戻る事なく死んでいった。
そして、やっと金沢に帰ってきた。

15年も16年も金沢から急にいなくなった人、いったいどうなったのかも誰もしらない人、
そんな人の為に沢山の人に通夜、葬儀に来て頂きました。
ただの付き合いも多かったとは思いますが。
でも
あのころは
本当に楽しかった。
本当に遊んでもらった。遊んだ。
本当に厳しかった。
沢山お世話になったんだ。
もう1回会えると思ってた。
また沢山の話をするのをずーっと待ってた。
本当に悔しい。
心からの言葉を沢山頂きました。
たくさん愛されていた。
この場所に、いつもの、あの頃の笑顔で冗談の1つでもいいながら戻れなかった事がくやしい。
あの父をもう1度見せてほしかった。
それを望み最後まで思った本人は無念だったろうと思う。

厳しく頑固で突っ走る。
何事も全力。
楽しむ事楽しませる事が大好き。
豪快なんだけど愛嬌のある。
人間味に溢れた愛に溢れたヒトだったと思う。
 
僕が知ってるだけでも面白い話、豪快な話
冗談みたいな話、数々のエピソードがある。
どなり散らして物を投げ飛ばす事も。
僕らの為には理不尽な事には先頭たって向かっていった。
自分も結構理不尽だけど。
沢山の間違いもしてるはず。
大きなプレッシャーの中で大きな事を成し遂げ
昔のように平和な毎日ではなくなっていたかもしれないけれど
前へと進んだ。
それでもいつでも家族の事を考えていたように思う。
そして仕事の事仲間や身内を大事に考えたように思う。
もう少し自分の体と余裕の事も考えればよかったのにね。

長い長いこの16年の闘病生活で
少しだけ忘れていたかもしれない。
あの父のあの人のあの頃を。

あの頃は迷惑しかかけてないしたいして話もしていない。
もっともっと教えてほしかった。
この16年人に父の話をすることも人から聞くこともあまりなかったから
これからまた、すこしづつ話たい。聞きたい。父の事を。
残した言葉、思い、沢山の愛をまた感じたいと思う。

本当は最初から覚悟していたかもしれないのに
こんな気持ちになるなんて。
叶わなかった思いと願いと長い16年。
今はまだ消化できないかもしれないけれど。
これだけでは全然足りないけど記しておく。
時々振り返ろうこの16年を。
時々思い出そうあの頃の父を。

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追悼

長い間お疲れ様でした。自分は、20歳のおり、父の病名も知らず、メキシコの地で、父の訃報を聞きました。それからの喪失感は、亮平さんと同じです。父は目標であり越えたい存在だと思います。だから、小さなことでも越えようとして思えるように頑張ってきたつもりです。肉体は存在しないけど、心の中にはずっといます。これからも色んな事があると思いますが、兄弟仲良く、お母様を大事にして、頑張って下さい。つたなく、変な文であることは、ご容赦ください。合掌
-りょく-

下北沢-りょく-
幅広いジャンルやスタイルのアクセサリーを中心に取扱うお店。
オーダーメイドもやってますよ。
Author:むねひろりょうへい

◎下北沢りょくweb site
◎りょくweb shopping site

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